2021年10月24日降誕前第9主日礼拝
聖書:マタイによる福音書22:15~22
説教題:「神のものは神に」
法亢聖親牧師
讃美歌:21‐482、21‐504
「そこでイエスは言われた、『これは誰の肖像、だれの記号か』。彼らは『カイザルのです』と答えた。するとイエスは言われた、『それではカイザル(皇帝)のものはカイザルに、神のものは神に返しなさい』。」(マタイ22:20,21)
本日の聖書に登場しているファリサイ派の人々とヘロデ党の人々は政治的・宗教的にも普段は反目し合っていた人々です。ところがイエスさまを陥れるために共同戦線をはってイエスさまを陥れ、なき者にしようとしたのです。ルカ福音書の20章19節によればファリサイ派や律法学者たちは、「イエスに手をかけようと思ったが、民衆を恐れた」とあるように、民衆の絶大な支持を受けておられたイエスさまを自分たちの権威や力ずくでは、抑えることができないので、「言葉の罠にかけようと相談した」のです。イエスさまのように真理に立つ人は、悪意に満ちた世界から忌み嫌われるのが世の常です。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に従って神の道を教え、誰をもはばからず、人を分け隔てなさらないことを存じています」。というように彼らは、きわめていんぎんぶれいに振る舞います。しかし、神さまを見上げ、神さまの御心に従う者は、どんなに持ち上げられても、言葉巧みな罠(わな)を仕掛けられても騙されたりはしないのです。そればかりか相手の偽善を見抜くことができるのです。「悪しき者はあつかましくし、正しい人はその道を慎みます。主に向かっては知恵も悟りも計らいごとも、何の役にも立ちません。闘いの日に馬を備えます。しかし、勝利は主によるのです」(箴言21:29~31)。
イエスさまの時代、ローマの属国となっていたイスラエルでは当時ローマの皇帝に税金を納めるかどうかと言うことは大問題となっていました。国粋的な熱心党の人たちは、反皇帝の意思表示としてローマへの納税拒否の闘いをしていました。もしイエスさまが皇帝への納税をするようにと言えば、まわりにいた熱心党の人々からひどい目に合うことでしょうし、ユダヤのイエスさまに従ってきた多くの人たちは落胆してイエスさまから離れていくことでしょう。しかし、納めなくてもよいと言えば、ヘロデ党の人たちが黙っていないでしょう。その上ファリサイ派の人たちが願っている通り、ローマに反逆する危険思想を吹聴したと言うことでその場で捕え、ローマ総督につきだすことができるのです。ところがイエスさまの答は、人間の思考を超えていました。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と答えられたのです。どうしてこのようなどちらにもおとしいれられない答ができたのでしょうか。そのヒントは、イエスさまが十字架につけられる前に総督ポンテオピラトから尋問を受けた時、「わたしの国は、この世から来るものではありません。もしわたしの国がこの世から来るものなら、わたしに従う者たちは、わたしがユダヤ人に渡されないように戦ったでしょう。」(ヨハネ18:36)と言われました。ポンテオピラトもユダヤの人々もイエスさまが武装蜂起し、また暴動を起こしてイスラエルの民をローマから解放させようと思っていないということが分かったのです。ですから一年に一度の恩赦の時ユダヤの人々は、暴動を起こしてつかまったバラバを解放し、イエスを十字架につけよと叫んだのです。イエスさまは、この世に来られ政治的理念に基づき政治的闘争をされたのではないのです。イエスさまは、ヨハネ18:37でこう続けて言われます、「わたしは王です。わたしは真理を証しするために生まれ、そのためにこの世に来たのです。すべて真理に生きる者は、わたしの声を聞きます」と。キリスト者は、したがって税金を払わない政治的闘争や軍事的武力闘争をするのではなく、真理のために(神さまの御心を実現するために、あるいは神の愛が支配する御国建設のために)戦うのです。ただ目の前のヘロデや皇帝とかではなく、「主にあって、主の強い力によって力強くなりなさい。悪魔の策略に対抗してたちうるために、神の武具で身を固めなさい。私たちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、闇の世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである」(エペソ6:10~12)。しかし、このことは、ただ悪霊と抽象的に戦うのではなく、黙示録によればその時代によっては龍であるサタンは、獣である国家権力に力を与えることもあるのです。
かつてドイツは、ヒットラーを救世主として仰ぎ、ドイツ人キリスト者の多くは彼を支持し、従い世界を戦争へと引きずり込んでしまったのです。「また、龍がその権威を獣に与えたので、人々は龍を拝み、さらに、その獣を拝んで言った、『誰が、この獣に匹敵し得ようか。だれがこれと戦うことができようか。』・・そして彼は、聖徒に戦いをいどんでこれに勝つことを許され、さらに、すべての部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。」(黙示録13:4~7)。黙示録の時代の教会は、このような実際的な獣の権力と戦ったのです。しかしその戦いは、武力や政治力によるものではなく、信仰の戦いでした。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」ということをただ単に政教分離と考えるのではなく、教会はこの世界に十字架の愛により勝利された主イエス・キリストを王と仰ぎ、国や、民族や、人種の壁を超え、貧富の差も、身分の差もない神の国樹立のために生きるのです。昔から日本でもそうでしたが、政事と祭事を一緒に考えられてきました。天皇制が象徴しています。古代はどの国でもそうでした。エジプトにおいては、ファラオは、太陽神の子供と考えられてきました。ローマ皇帝が皇帝礼拝を強いたのもそうしたあらわれです。古代の世界の偶像は、まさに政治的宗教そのものだったのです。そうした意味で日本人である私たちキリスト者は、神さまからいただいた平和憲法を守りつつ、信教の自由が守られているこの時代に私たちのできることをしていきたく思います。この世は、すべてこの世を造られた神さまのもですから、どの命も失われることなく、大切にし合う世界をつくりだしていきたく思います。